新・平家物語、宮本武蔵の著者 吉川英治(よしかわえいじ)

横浜市出身の吉川英治は、「三国志」や「宮本武蔵」などの大作を相次いで発表し、国民作家としての地位を不動のものにする。
そして、第二次世界大戦後の昭和25年から、「新・平家物語」を週刊朝日に連載し、最終巻「吉野雛の巻」では、那須大八郎が平家追討の命で椎葉に来た様子をこの様に書いている。

ここらは、肥後の境をなす天井といってもいい。人跡未踏とはこんな地か。おそらく平家の男女も「……もはやここまで」と、かつての栄華など、前世のことのように、ただ露命を地につなぐだけの願いで、細々と煙を立てていたのだろう。
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大八郎は、追っかけおっかけ、それらの者の影を目にする距離まで縮めたが、「ああっ、待て、矢など放つな」思わず部下を制してしまった。「やあ、あわれ、女子どもがいる。武者も、こなたへ立ち向かう様子もない。ただ行く先を見届ければよいぞ」
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しかし、泣き声をつつんで逃げ惑う平家人らは、それとは知るはずもない。半日走った末、一群は五家荘から五木の方へ落ち、ほかの人数は、山方山の陰から十根川の細水に添って、そこの渓谷、椎葉の辺りへ、みな影を沈めてしまった

吉川英治筆跡は、「庭の山椒の木〜」の〝ひえつき節〟の碑が、鶴富屋敷の庭にあり、もう一つ、吉川英治自ら命名した「日向椎葉湖」の筆跡の碑石が、女神の像公園の一角に建ってある。